1978年12月

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当時、間章の訃報を知ったのは、北陸中日新聞の朝刊紙面からだったと思う。随分長い間、その切り抜きを持っていたが、数度の引越しの際に紛失してしまった。この音楽評論家の存在を初めて知ったのは1975年頃、日本コロムビアから発売されていたマイク・オールドフィールドの「ハージェスト・リッジ - 夢と幻の地平線」の初版ライナーノーツに於いてだった。「間章」が人の名前である事を認識したのは、それから少し遅れてだったが。数年後の私は、「間章」に感化され、初来日のデレク・ベイリーを京都まで見に行っている。学業をサボって数日抜け出していたので、帰宅後は家族に酷く叱られていたのを思い出す。写真は、当時私も編集に関わっていたミニコミ誌 AVANT-GARDE の1979年1月号の表紙と、同7ページ、「間章氏の死を悼む」という記事からの転載。